中野中の足裏庵日記  -12-   ― 加守田次郎の感傷旅行 ―

高輪画廊展覧会、加守田次郎写真


某月某日
あるパーティーでこんな話があった。
アマゾンの奥地に”雨乞い”の老爺がいる。名人とも天才ともいわれる老爺だが、この人が雨乞いすると必ず雨が降る。
なぜなのか。それは、雨が降るまで雨乞いを続けるから。
何とも微苦笑を誘われる落ちのついた話だが、要はこういうことだ。
つまり、画家(に限らないが)は誰でもおのが内に天才をかかえて制作を続けている。
天才がたとえどんなに小さくても、それがあることを信じていなければ、とてもじゃないが創作にたずさわってなどいられない。たとえ小さな天才であっても、その才能が育ち芽吹くまで絵を描き続けなければ意味がない。いつ咲くかわからない天才の開花するまで、画家は精進努力を重ね、描き続けるしかない。
そういうことなのである。

某月某日
加守田次郎さんが個展を開いている。(5月27日〜6月8日)
どの作品も深い彩調を帯びている。その深々とした渋い彩調の中から、建物のある風景や花々や抽象的なフォルムが浮かび上がってくる。 風景や花といったが、それはそうタイトルされているからそう見えたり思ったりするだけのことで、そうハッキリ断定できるものではない。 つまり、説明のほとんどない世界で、謂うところの画家の、あくまで心象なのである。 それはどこかで見、どこかで読み、いつか出会った事象が画家の心に沈殿し、時間の経過とともに心象風景となって浮上してきた。 そんな感じなのだ。
たぶん、キャンバスを前にして画家はそれほど明確なイメージやモティーフは持っていないのではないか。地塗りをし、何度も絵具を重ね、削り、こすり、そうしたプロセスのうちに徐々にイメージが湧き、それを育てながらわずかな象(かたち)をとどめ、 引っ掻いたりする。そこに加守田次郎の心象世界が展開する。

某月某日
そんな加守田作品に誰もが懐かしい匂いを嗅ぐ。
渋い彩調に大地の地熱のような温もりが胚胎し、大気にはうつろな光(明り)が蔓延する。 人はノスタルジックな思いを抱き、郷愁に誘われる。
どこといえない風景には、どこかしら未完の風がある。 頼りなげなその風に、人々は画家と一緒に絵の中に入り込み、その人なりの風景をつくっていく。そんな親しみと優しさと湿度がある。 作者自身にも現実か夢幻か判然としない。そこに人は惹かれる。
加守田次郎の心の旅路ー”感傷旅行”はこれから深まってゆくことだろう。


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