中野中の足裏庵日記  -19-    楽々、易々と ― 三岸好太郎の素描

高輪画廊展覧会、三岸好太郎展写真 ピエロ


某月某日
三岸好太郎が生まれて、ちょうど100年目に当たる。彗星のように登場し、韋駄天のごとく走り抜けた天折の画家、といったキャッチフレーズで語られることの多い三岸好太郎は、 31才で短い生涯を終えている。
生誕100年記念としての本格的な展覧会は、北海道立近代美術館(4月18日〜5月25日)を皮切に下関、府中、名古屋を巡回するので、その活躍ぶりの全貌が楽しめることになろう。
好太郎は1903(明治36)年札幌に生まれ、札幌一中卒後、画家を目指して上京、独学で絵の勉強を続け、23(大正12)年、第1回春陽会展に初入選を果たし、画壇デビューをする。

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好太郎は1934(明治9)年、31才で亡くなっているから、画家としての活躍は、春陽会入選の20才からわずか11年の活動にしか過ぎない。 にもかかわらず、その11年はきらびやかな光芒を放ち、鮮烈な印象を今に残している。
春陽会初入選の翌年、素朴な情感の漂う人物像や風景画など4点の作品が春陽会賞の首席受賞し、画壇の注目を集めた。
その後、中国旅行など制作の新しい方向の模索を続け、30(昭和5)年、道化をモチーフとした作品を発表、 その特異な主題と表現は新しい境地を示すものとなり、その後32年にかけ、どこか憂愁を感じさせる道化やマリオネットなど一連の作品が生まれる。
この間、独立美術協会の結成に最年少の創立会員として参加。この頃より作風は奔放さを加え、道化をはじめ女性像、風景、静物など多彩かつ意欲的な制作が続けられる。
ところが1932(昭和7)年末から翌年にかけ、<オーケストラ>などひっかき線による作品や抽象作品、コラージュなど、様々な前衛的な手法を試み、斬新な魅力あふれる表現を生んでいった。

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しかし更に好太郎は前進する。1934(昭和9)年に入ると蝶や貝殻がモチーフとなり、作風も大きく変貌、どこか夢幻的な光景となる。 一方で手彩色の素描集を刊行、また詩も創作するなど多彩な展開を見せる。
念願のアトリエ建築にもとりかかったが、その完成を見ることなく、旅先の名古屋で客死してしまうのである。

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生誕100年を記念して本格的な展覧会が全国巡回をする一方、ここ高輪画廊では好太郎の生まれた4月と、亡くなった7月の2度にわたって水彩、スケッチ(墨、インク)、あるいは油彩を中心に 30点近い小品展が開かれる。モチーフはピエロや人形の顔、裸婦、海や風景、蛾、犬、楽隊、トマト等々、あるいは抽象構成の作品まで 多種多彩である。時に紙の表と裏の両面にまで描いているのが何点かある。手当たり次第、白い紙があれば描かねばいられない、 しかも嬉々として描いている。その溢れるばかりの才といい、意欲といい、しかも自在な運筆、手法といい、何とも楽しさに会場は満ちている。
私たちはそれを手放しで楽しめばいい。(━ 三岸好太郎展 ━ 2003.4.12.)


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