中野中の足裏庵日記  -25-    大橋みやこのぬくもる景

大橋みやこ展


某月某日
若いということは羨ましい。伸び盛りというのは羨ましい。大橋みやこの昨年に続く2回目の個展を見て、こう思った。
彼女は1976年に生まれ、99年に名古屋芸術大学をでたばかりの駿女だ。悩んだり行き詰まったり、若いのだから私生活でもいろいろ あるだろうが、着実に成長していることがハッキリわかる。不安と悩みを抱えながら大いに勉強するがいい。

某月某日
「ながれのまま」(60F×2)、「白と緑と自分と」(100F)、「残像」(60F×2)、「記憶」「ヒカリ」「あかい声」(50号) などの大作をはじめ、「庭」(S×7)まで新作20余点の出品。
色調と色面の構成が面白く、その響きが広くとった空間に広がってゆく快さが前回にも感じた彼女の美質だったが、 前回よりも色調が明るくなり、具体物(おもに樹木だが)がさらにおぼろになり、全体がさらにとらえどころがなくなりつつあるのだが、 それでいて伝わってくるものは以前よりも明確になってきた。
簡単に言ってしまえば、色彩の交響化、フォルムの簡略化そして空間の豊かさが持ち味となるのだが、そう括ってしまっては彼女の大事なものが隠れてしまいそうな気がする。
それは何なのか。

某月某日
彼女の絵は暖かい。ぬくもりがある。だから人っ子ひとりいなくとも少しも寂しくない。 それは描かれた作品の中に画家自身の心があるからなのだろう。
彼女の描くのはほとんど風景だ。彼女が毎日のように散歩する公園や歩く道筋の景なのだ。 そこから生まれる彼女自身の景なのだ。
それを言葉で言えば、景の姿とでも言えば良かろうか。姿とは、ただ普通に言う物の形とか恰好のことではない。例えば、 あの人は姿のいい人だとか、様子のいい人だと言う。 それはその人の姿勢が正しいとか、恰好のいい体形だという意味ではない。 その人の優しい心や人柄も含めて、姿がいいと言う。
それと同じで、風景の姿、心に映ずる姿を大橋みやこはとらえようとしている。 だから絵にぬくもりがあるし、美を求める人の心に訴えるのだろう。
前回も書いたことだが、性急に答を求めずスケール豊かな画家になってほしい。画家の道のりは長いのだから。

某月某日
来春にはカナダのトロントで初個展だという。 あちらでの反響も楽しみだが、彼女自身、大きな大陸、広々とした風景を見て感じることが、これからに大きな糧となるのでは なかろうか。そのことが私には楽しみだ。

                                                 (’03,9,15記)
大橋みやこ展2

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