【中野中の足裏庵日記】―35―三岸黄太郎展 in Toronto
2004/11/01

某月某日
出かける前の東京も、滞在中のトロントも、その間に訪ねたニューヨークも、そして帰って来た東京も、雨雨雨のほとんど毎日であった。 だから嫌な旅だったというわけではない。むしろ雨の日は大気もしっとりと喉に優しく、街並もしっくな彩りに染まっていて、私には十分楽しめた。


某月某日
色づきはじめた並木のスコラード通りの一角にあるベケット・ファインアート・ギャラリーはこの日、多くの来廊者で賑わっていた。 三岸黄太郎展のレセプションが開かれたのだ。私は画集の執筆をした関係で招待の栄に浴して先生と同行した。
ほとんどはトロント在住のようだが、遠くシカゴやボストンなどアメリカから駆け付けた人々もいるようだ。彼らは互いに握手し、時に抱き合い頬ずり合い、明るく楽しげに会話を交わす。画家に話しかけたり、私にまで声をかけてくる。そんな様子を見ていると、彼らが絵を愛し絵を楽しむことが、まっこと日常的であることがわかる。


某月某日
正直言ってビックリしたこと、それはこの日のうちに大きな作品(30〜50号)に4、5点も赤丸印が付いたことである。はるばる東京からやって来た、トロントでは無名(とはいえ当画廊では2年毎に4度目の個展)の画家の作品に数百万円のお金を投ずる。それも喜々として嬉しそうに。自分の家の居間のあの場所に飾って、家族みんなでミギシの絵を話題に楽しい時が過ごせる、と笑顔で帰って行く。自分の審美眼にかなえさえすれば、自分の心に感じてくるものならば、彼らは躊躇しない。有名無名もなければ、投資・投機の射倖心もサラサラなしである。
ビックリした顔の私にベケット氏(画廊主)は言う。これだけ大きな作品を求めるということは、それだけの家に住んでいることなんだ、と。そして既にミギシのリピーターも生まれ、2点目、3点目を購入しているという。


某月某日
それにしても、トロントでミギシの個展を企画した高輪画廊主の眼力も確かなものだ。単にベケット氏と若い時からの友人だ、だけでは商売は成立しない。周辺の画廊街を歩くと、イヌイットやアジア等の骨董、現代作家の抽象も具象もアメリカの影響を消化しきれない、あるいは自身のアイデンテティを十分発揮出来ていない中途半端な作品が多い。 そんな中に、よくもまあミギシの作品を持ち込んだものである。勿論、成算はあったのだ。
どこにそれほどのミギシの魅力があるのだろうか。彼らはなかなかに辛辣だ。はじめはビューティフルだが徐々に自分の感想を述べ、仲間に意見を求め合う。しかし最後に決まってこう言うのである。「いくら喋っても、ミギシには言葉にならない世界があるのネ」と。そこに惹かれるのだ。
三岸黄太郎の絵には詩心があり詩情が漂う。しかもそれを支える絵画(造形)理念があるのだ。。モノと空間でつくる構成にしなやかな強さと緊張感がある。 それは画面に漲るアーティスト・ミギシの美感であり、精神性なのであろう。




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