【中野中の足裏庵日記】―37―妖艶な黒の世界 - 近馬治展
2004/11/10

某月某日
近馬治の作品が明るくなった。そんな気配がある。とはいっても、画面はいつも通り黒々としており、絵具を塗り重ねてコテコテである。口の悪い古い友人は「アナクロニズムだネ」と言い、「しつこいネ」と言う。
それは確かに、今風のシャレや軽快さやひろやかな空間感などはない。というより画家の眼中にそんなものはないのだ。ひたすらに、ただひたすらに自分の手法を遵守して執拗に描く。それだけだ。


某月某日
そのひたすらさ、執拗さ、あるいは一途さが、逆に近馬治の魅力なのだ。それこそを正統に評価しなくてはなるまい。何故ならば、黒々とコテコテの中にこそ美の片々が蔵されているからだ。迷わず一途に自分の手法に徹することが、内に美の光を蔵し、全体として明るくなった印象を抱かせるのだ。


某月某日
近馬治は人間大好きである。ことにも<女人>大好き人間である。女性でも女でもない、婦人でもない、<女人>が好きなのだ。
今展は30号から小品まで素描やグワッシュの数点を含めて全30点の出品だが、そのほとんどが<女人>を描いたものである。『夜のメトロ』(30F)は群像だが、他は一人像、それも上半身や顔がモティフになっている。
男にとって、この世でもっとも不思議な存在であり且つもっとも愛すべき存在は<女>である。それほどに不可解な存在に画家はメスを入れる。いや、絵筆とナイフでその存在に迫る。見目形の美醜を超えて、その内部を抉り出そうとする。その迫真がひたすらであり執拗であり一途な結果、コテコテになるのだが、そのコテコテの奥からとらえ難い女の性が、業がキラメキ出して<女人>像となる。そこに美を見るか醜を嗅ぐかは観者任せだ。


某月某日
中に1点、自画像がある。『ピアスをつけた自画像』(15F)は青白い顔の中の眼が印象的だ。というより衝撃的だ。その眼は光を失い気力を喪失し、焦点を失っている。これほどの真実をとらえた眼は、これまでの幾多の自画像の中にあったろうか。と思うほど見事に対象化されている。凄い眼を描いたものだ。
自画像では自我が見事に突き放して対象化しているのだが、他者である女を描いて、どうやらその存在が画家自身と自己同一化しているのでは、と思われるほど画家は<女>が好き、いやのめり込んでいる。故に<女人>として描き切れるのだろう。
それにしてもそれほどに執拗な筆致には、画家の<女人>への、<女人>を描くことへの愛情と熱愛が読み取れる。
頑固もの近馬治、バンザイである。




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