某月某日
大橋みやこの3回目の個展が開かれた(11月29日〜12月11日)。初日のパーティーに私は出かけることが出来なかった。作者に会いたかったのだが叶わなかった。翌日も翌々日も行けず、4日目にようやく立ち寄った時には既に画家は愛知の方に帰ってしまっていた。
個展に行く。作者がいたり居なかったりする。居れば当然のごとくその作品について語り合ったりすることになる。心情がピッタリきたり、いささか得心がいかなかったりもする。作品評の背景には、作品そのものだけでなく、作者の言葉や心情がある。ありながら時に掬いとったり切り捨てたりするのだが、この塩梅がけっこうむずかしい。作品や作者に付き過ぎても、また離れて一人勝手に陥ってもまずい。そこら辺りでいつもうろうろしている。
某月某日
画家と対象との関係についても同じことが言えよう。対象に引かれ過ぎてしまったり、自己陶酔に陥ったり・・・。結局は対象と自分(画家)との相関が作品であるとも言えるようにも思う。
大橋みやこの、あたたかくて、もうろうとして、ゆったりとした広がりを観ていると、この作者は風景を眺めているうちに、風景の側に自分が入ってしまっているように思われる。通り沿いの並木のパースペクティヴは、自分が風景の中にいて、向うにいる本来の自分の眼が見ている風景をイメージしているのではないか。だからこれほどにも広がり茫洋として、尽きるところを知らぬのだ。
某月某日
あるいは、自分の網膜に映った景をあらためて外から見ている。と言えばよいのか。いずれにしても、その色、パースペクティヴ、構成が大橋みやこ自身の視点になっているということなのだ。その視点が私などに持ち合わせがないから、新鮮にも感じるし、新しい感覚が常にそうであるように不安でもある。しかしその不安は、最初に大橋の作品をも見た時のオドオド感ではなく、ヴィヴィッドなものとして感じられる。それだけ画家自身、手探りの中にも手応えを見つけつつあるのだろう。
「Freeling」(100F)や「通り」3点(各150F)に好感を持った。「通り」の作品のように、伸びのびと広い路をゆっくりと歩んで欲しいと願っている。