【中野中の足裏庵日記】―41―二つの三岸節子生誕100年記念展と二つの<さくら>
2005/05/04

某月某日
三岸節子の生誕100年を迎えて、記念展が展開中だ。すでに日本橋三越本店での会期(4月19日〜5月1日)を了え、大阪高島屋で開催中(5月4日〜16日)。回顧展初出品の19才の<自画像>から、94才の死の直前まで描き続けた<>まで、代表作品95点が出品され、「ひたすらに絵を描くは、しびれるような満足を得たいがため」(今回初公開の日記から)という三岸節子の求道的な画家人生がたどられる。


某月某日
朝日新聞社主催の大型回顧記念展のスタートに先立って、高輪画廊でも「三岸節子生誕100年記念展」(4月11日〜28日)が開かれた。
一画廊のスペースだから小規模であったが、全16点は初公開作品も多く、すべて油彩作品の充実した内容であった。
1924年の<自画像>(4F)をはじめ、憂い顔の女性が登場する<人物>(1936年頃、25P)や線描による珍しい群像の<円舞>(1937年,15変)から'80年代以降の花や風景作品<テアトルの廃墟>(1989年,80F)、<巴里16区の家>(1985年,20F)など、見応え十分、銀座界隈でも近頃出色の展覧会であった。しかも無料。


某月某日
中に、<さいたさいた桜がさいた>が殊にも私の目を惹いた。40号の正方形の画面いっぱいに、ややピンク色の枝垂桜が万孕と咲いている。老大樹が精一杯、命の限りを咲かせているといった印象をうけるのは、制作年が死の前年(1998年)だからであろうか。
実は、朝日主催展にも同年作の<さいたさいたさくらがさいた>が出品されている。大きさは100Fの横サイズで、構図はほぼ同じく画面いっぱいの桜だ。40Sに較べタッチはやや粗いが、そのぶんうねりのムーブマンが強い。どちらが先かは知らないが、いずれにしても前後して描かれているし、桜はこの2つの作品しか私は知らない。
人生の最後に、なぜこれほど桜に執着したのであろうか。


某月某日
タイトルが尋常一様ではない。さくら、もしくは桜、あるいはさくらがさいたでも、桜がさいたでもない。<さいたさいた>と2度も重ねて咲いたことを強調している。よほど桜が咲いたことがうれしかったのだろう。その喜びの大きさが、<さいたさいた>と2度も繰り返させているのではないか。あくまで憶測だが、制作が死の前年であることから、晩年は桜が咲く春を迎えるたびに、あと何回桜の春を迎えることができるのかから、来年の桜は?にまで体の弱まりに追い詰められていたのではなかったか。それが幸いに桜の開花にめぐり合えた。その喜びが筆をとらせ、出来あがった作品に<さいたさいた>と題名をつけたのだろう。その喜びは、加えて言えば生命への執着までもが作品からよみとれるようだ。


某月某日
「自分の新しいモチーフとして風景をものにしたい。ヨーロッパで心行くまで描いてみたい。」(黄太郎氏談)と満を持して再渡仏したのは63才のときであった。南仏カーニュに5年5か月、さらにブルゴーニュ地方の小さな村ヴェロンに15年近く暮らした。自分の心に響く風景を求め、ヴェニスやスペイン、シチリア島まで旅をしながら、徐々にヴェロンの生活に慣れ、ヴェロンや近郊をしきりに描くようになっていった。
そのヴェロン時代の傑作に<一本の木>がある。大地に1本たつ木。その木に鳥が群れ飛ぶ、それだけの絵だが、異郷の地で筆一本で戦い生きる意志の強さ(覚悟)と孤独感が沁々と伝わってくる作品だ。
実は<さいたさいたさくらがさいた>は、この<一本の木>に対応する作品なのではないかと思うのだ。


某月某日
1989年84才の7月、フランスから帰国した三岸節子は、以降10年、死を迎えるまで「また、ヴェロンに帰りたい」と口ぐせのように言っていたが、結局、健康上の理由から果せなかった。
60代になってからの異郷での画業で、風景画にほぼ満足できる仕事をすることが出来たし、出来ることならそのまま異郷にとどまって更にその画業を深めたい思いは強かったに違いないが、やむをえずの帰国となった。
それは不本意であったろうが、大磯に落ち着いてみればそれはそれで心休まる思いもあったに違いない。そして四季をめぐるうちにあらためて老境の身に日本の良さがしみじみと感じ入ってきたのではなかったか。
そんな思いの丈、人生の締めくくりが<さくら>に凝縮したのではないか。私にはそう思えてならないのだ。
<さいたさいたさくらがさいた><さいたさいた桜がさいた>の2点は、私をそんな思いに運ぶのだった。




中野中プロフィール up/足裏庵日記バックナンバー

HOMEロゴ
- Topics Board -
Skin by Web Studio Ciel