某月某日
作家や画家の回顧展を見るとき、いつのころからか、その人がいくつの時にどんな仕事を、あるいは作品を遺しているのかが気になるようになった。しかも仕末の悪いことに、その先人たちと自分の歳を重ね合わせているのである。そして見くらべてみては、あゝ俺は…と溜息をつくのがいつものことなのだ。その上、天才が天才的に生きるのと凡人が凡庸に生きるのは、その個々においては等価なのだ、などとゴマメの歯軋りの如くの暴言を吐いては自己嫌悪にオチるのが常なのだ。
平塚市美術館での三岸節子生誕100年記念展の初日、会場を巡りながら、ふとそのことが頭を持ち上げてきて、節子62才の作品をチェックする目になっていた(今秋、私は62才になる。)。
某月某日
三岸節子62才の作品に『エジプトの鷹』(1967)がある。窓辺の大きな壷などと一緒に黒々とした台座にエジプトの鷹(彫像)がうずくまっている。窓外には緑の海が広がり、水平線の向こう低い山並の上に雲が湧いている雄大な作品だ。
<花の画家>としての名声をすでに確立していたが、このころは大磯のアトリエでしきりに風景画への展開を意図していたという。この作品では得意の赤を封印して制作している点でも、風景画の新しい可能性を探究している様子がうかがえないでもない。また、この作品は新制作の第31回展に出品されたが、公募団体展への出品はこれが最後となった。
更に年譜によれば、長い間保存と蒐集に努めてきた故夫・好太郎の遺作220点を北海道に寄贈したのもこの年である。寄贈を受けた北海道はこの作品を基礎に、同年9月に北海道立美術館を開館した(これより16年後、道立三岸好太郎美術館が開館する)。
某月某日
こう見てくると、三岸節子にとって62才はまさに節目の年であったと言える。ことに好太郎の遺作寄贈は、ひと区切りつけたとの思いを強くさせたことだろう。ひと区切りつくと、自分の腹の底におさめていた画家魂が再びふつふつとたぎってくる。
68年12月、運命に後押しされるように、「5年間滞在して風景画に挑戦し、パリで個展を開くんだ」という決意を胸に、子息黄太郎一家とともに渡仏、南仏カーニュに5年のあと、寒村ヴェロンの旧家を買いとり改造し、そこに15年、84才で帰国するまでほぼ20年滞在するのである。
その間、ヴェニスをはじめギリシャ、シシリー、スペイン、パリと精力的に取材を繰り返し、風景画に数々の傑作を生み出したことはこの展覧会がよく物語っている。
某月某日
三岸節子は晩年、「長生きしたものが勝ちだね」と語っていたという。三岸好太郎という天才を夫とし、わずか10年で死別、3人の子供を育てながら画家として生き続けてきたことの自負の思いが、この言葉には感じられる。
好太郎の才あふれる感性にまかせた絵画に対する同じ画家としての嫉妬も羨望もあったであろう。しかし努力の人節子は90余年の人生をかけて一歩一歩積み上げてきた。人並以上の苦労、貧乏、絶望を乗り越え、孤独と戦いながら積み上げた画業。それはキラメく天才には負けても、作品のもつ豊かさでは私は超えた、ということであったのではないか。
「絵を描くこと、イコール生きること」であった三岸節子の本質がここにある。
三岸節子 生誕100年記念展 巡回日程 |
〜9月11日 | 平塚市美術館 |
9月17日〜10月26日 | 北海道立三岸好太郎美術館 |
11月03日〜12月18日 | 一宮市三岸節子記念美術館 |