某月某日
現代の不安と虚無をスリラー的手法で描いたイギリスの小説家・劇作家グリアム・グリーンは、「書くことは治療法のひとつの形である。書いたり作曲したり描いたりしない人々はすべてどうやって<孤独>からくる狂気やうつ病や人間に固有のいわれのない恐怖からうまく逃れているのかと、わたしはときどき不思議に思う」といっている。
<孤独>とは絶対的な<存在>である、とする考え方に対して、社会学者などによると、ひとつに他者とのコミュニケーションの欠如であったり、愛情や尊重される意識の欠如に対する反応である、とする。
小説を書く、作曲をする、絵を描く、すべて密室的状況における個的作業ゆえに孤独である。が孤独に徹することによって、孤独から逃れられるのも確かなことであろう。孤独が生みだす作品が、人々とコミュニケーションをもたらし、社会の一員となる。
某月某日
赤味を帯びたオレンジ色が、やわらかな微光を孕んで広がってゆく。無限の広がりを求めて拡散してゆく空間に木瓜が描かれている。たぶん木瓜だろう。確定できるほど精細には写実されていない。その木瓜の幹も蕾も花もオレンジ色に包まれている。たとえたった一輪でも少しも寂しくない。伸びやかで豊かささえ感じる。
春の、ようやく光度を増してきた明かりが画面に遍在し、その明かりを花は掬い集めて花の命を咲かせている。ひそやかだが、確かな存在を示しながら。それが大橋みやこの<花心>なのだろう。
某月某日
当画廊で4回目の個展(11/07〜17)は<花心>と題された。
これまでの個展でも花は登場したが、メインではなかった。日常的に繰り返す散歩、通勤の往き帰り、あるいは自宅の周辺で見かける景やもの、海辺であったり公園の木々、鉄塔などを光に溶け込むような柔らかな表情でとらえていた。それらはやさしく柔らかく、どこか茫漠として魅力的ではあったが、一方で自分自身の描きたいモノ、コトをつかみきれず、探しあぐねているようにも見えた。私自身はその心の揺れや年々の作品にそのプロセスを興味深く見続けてきた。
某月某日
今作も基調はこれまでとほぼ同じであろう。が、どこか手応えが違う。何かを掴み、手に入れたのではないか。作品に確信的な気配が見える。木瓜を中心に花にテーマを絞ったこともあろうが、それ以上に光を孕んだ色調に孤独を脱する一つの応えを感じたのではなかろうか。あるいは彼女自身の内面の変化にあるのかも知れない。
いずれにせよ、孤独の深まりとともに、彼女の持味であるやさしい心、広がる空間、ぬくもる思い、それらがもっともっと深まってゆくことだろう。モティフも基調色もうつろい変りながら・・・。
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