【中野中の足裏庵日記】―53―
静かに豊かに満ちてくる世界―三岸黄太郎展に思う
2006/04/22

某月某日
昨年暮から正月にかけてのグワッシュ展(12月28日〜1月10日、横浜高島屋)に続いて油彩個展を開催(4月5日〜11日、日本橋高島屋)。その案内状は以下のように三岸黄太郎先生を紹介している。

―三岸先生は1930年に父好太郎・母節子の長男として東京に生まれました。母節子の薫陶を受ける中から油彩を描き始め、パリ留学を機にヨーロッパ各地に遊学されました。1974年に居を定めたフランス、ブルゴーニュ地方ヴェロンでの生活と制作は三岸先生の独自の画風を生み出すうえで、大きな転機をもたらしました。その地の空気、たたずまいは三岸先生の作品に深い陰影を与え、詩情豊かな静謐な世界を描き出す源となっています。―

某月某日
そうしたヴェロンの風景の新作30点ほどが並んだ会場は穏やかな静かさに満ちていた。が静かではあっても淀んではいない。会場の空気は静かだが豊かさが漂っていた。その地の空気、たたずまいをとらえた四季折々の風景は陰影を抱えて静かな詩情をうたっていた。
三岸先生の絵は特別なものやことは何も描かれていない。丈の低い枯木と白い壁の粗末な家、そして広々とした大地と大きな空、それだけだ。余分なものはすべて削り落とし、可能な限りシンプル化したフォルムとコンポジション、塗り重ねた堅固なマティエール。
ヨーロッパを旅行した人なら、どんな田舎へ行っても教会は必ずあり、そこを中心に村々は出来、人々の生活はまわっている。教会はひときは目立つ存在だ。が三岸先生はそんな教会に見向きもせず、どこにでもある村落の景に目を向ける。そして生まれた作品に私たちは詩情を感じる。

某月某日
風景というものは、外に、どこかに、誰にでも同じものとして在るものではない。たまたまある風景を前にして、この景色はずっと前から心の奥で知っていた、というふしぎな懐かしさに打たれるとき、それはそこに立つものにとっての真の風景となるのだ。
三岸さんは、何の変哲もないヴェロンやその近辺の風景に徐々に懐かしいものを感じていったのだろう。
だから氏の風景作品に漂う詩情には懐かしさがある。見る人それぞれの懐かしさを感じる。だから静かだが豊かであり、満たされるのだ。
風景を見る目は、その人間が生きてきた過去の記憶、そしてたぶん、これからの記憶と深く関わってくる。三岸黄太郎のヴェロン風景はそんな思いを抱かせる。




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