某月某日
コンクリート・ジャングルから今やガラス張りのビル群の銀座にも、気がつけば桜花はそこかしこに咲き乱れ、春の嵐に早々と散り、葉桜の候と、季節は駆け足で通り過ぎてゆく。桜が終ると急速に水が温んでくる。小川も疎水も池もその面に初夏の空を映し、薫風に小波を立てる。
ある時は睡蓮を浮かべる静かな水面に心休ませ、ある時は轟音をとどろかせる滝や波浪に心躍らせ、ま何気ない樹影に人生を重ねたりもする。
某月某日
富沢文勝(1947年東京生。多摩美術大学卒)が高輪画廊で6年ぶりの個展(4月2日〜12日)を開催した。近年は池畔の風景に心惹かれるようで、水面にたゆたう樹影やその反映を描いた『紅葉』(F25号)、『水辺』(F20、F12,M8)、『水面』(P10)などの油彩作品を中心に、グワッシュ、水彩、墨などによる小品の桜や花など、計30点ほどの出品となった。
富沢の描く<水辺の情景>の数々の作品は、車なら自宅から20分ほどの和田堀公園(杉並区)の取材にもっぱらよっている。この池は水底が浅く、それだけ周囲の景を鮮やかに映し出している。その池面の表情に富沢は惹かれたのだ。
富沢に限らず、人は誰もが水に惹かれる。おそらく命のみなもととしてのDNAによるのであろうし、人類が大地に上がってからも水のある地に必ず拠点をもって生き続けてきたことが深く体内に細胞に組み込まれているからであろう。
しかし、ナルシス物語のように紅顔の美少年の頃はともかく、還暦になって水に惹かれるのは、何らかの人生観の反映であろう。池畔の樹々には触れれば実感がある。鼻を近づければ匂いもする。しかし池面の樹影は手を伸ばしてつかもうとしても指の間から洩れて形をなさない。通俗な言いようだが、実と虚の世界だ。
映っているだけのものに実体はないが、実在する樹とは違った画家との距離感がある。虚との空間感、空気感がある。<感>という実体(正確には実感か)がある。この感性と実在との間に自分という存在が介在して生まれるもう一つの<実と虚>。このあわいの面白さに心惹かれるのではなかろうか。
某月某日
これまで漠然と感じていた、黒の画家のイメージをこの個展で私は修正しなければならなくなった。もちろん、富沢の<黒>は魅力的である。しかしその黒を活かすための白とか紫とか緑の諧調に画家はいかに腐心していることか。そしてそのことによってイメージが明るくなった。それでいて作品の味わいは深くなったように思われる。
池面の樹々の影は、氏の人生の年輪の反映なのだ。
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『紅葉』油彩(F25) |
富沢文勝さんと筆者 |
『桜』油彩(F10) |
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