中野中の足裏庵日記(59)三岸黄太郎のく深まる心象>      
2007/09/23記
 
『白い町』 油彩 (F3) DM 掲載
『冬の太陽』油彩(F10)
『無題』油彩(F3)
某月某日
今年の夏はとにかく暑かった。とにかく暑くて、私の日課である画廊歩きさえ、ままならなかった。体温以上の暑さのなか、どうやって息をすれば良いのか、呼吸の苦しささえ覚えたほどだった。加えて、地震、台風、大雨など自然災害も過去に例をみないほど多かったし、そのスケールも、従って被害の大きさも桁違いだった。
やはり地球は壊れつつあるのだろう。世界規模で対策を迫られているがもはや遅きに逸した感がなくもない。終末は確実に近づきつつある。


某月某日
9月になっても暑さは少しも熄まず、残暑もまた厳しかった。そんな中、三岸黄太郎小品展が9月3日から15日まで開かれた。高輪画廊では実に7年ぶりという。10号から3号までの油彩21点が並んだ。いずれもヴェロン、あるいはブルゴーニュ地方の四季をとらえた作品群である。
これらの作品は、一般的にいえば風景画である。一般的でなくても風景作品と呼ばれるものである。が、風景画としてジャンル分けすることに私にはいささかの抵抗があるのである。


某月某日
例えば、DMに掲出の作品「冬の太陽」を見てみよう。どんよりとした冬の空に白日がかすみ、冬ざれの畑地が広がっている。天と地の境に翳りの濃い木立ちがあり、囲まれるようにして白壁の家らしきものがある。ただそれだけの景が、細やかなニュアンスを伴いながらセピアを基調色に展開している。木立ちといい家というが、そうであろうと私が推定するだけであって、そうであると確証できるだけの説明はされていない。
この画面のキーポイントは家の壁と思われる角形の白である。この角形は白日の丸と牽引しながら均衡を保ち、角白は全体を収劒しながら、角白から揺れ戻し気味に視線をまわりに放射していく。こうした視線の運動によって画面は大きな空間と化しながら、謂わば気韻静動が生まれてくる。そしてこの抽象空間に画家の心象が行き渡りながら深まっていくことに私たちは気づき、驚き、感動するのである。


某月某日
ゆえに私は、三岸黄太郎の世界を単に風景作品とは呼び得ないのだ。


 
『群れる』油彩(F10) 『冬の気配』油彩(F10)『夏空』油彩(F10)


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