中野中の足裏庵日記(74) <輪の会>展       
2010/04/10記


赤堀尚


山本治


大庭英治


某月某日
今さらながらではあるが、ことしの天候上順は甚だしい。おかげで桜花の持ちがずいぶん良かった。関東圏では2週間近く花見時が続いたのではなかろうか。私も近くの(といっても車で30分~40分はかかるが)さきたま古墳へ花見に出かけた。平日の、今にも雨の降りそうな冷え込みの強い日であったが、けっこうな人出で賑わっていた。本当に桜花が好きなのか、花見という行動そのものが好きなのか。昼どきの混み合う食堂でもあるまいに、混み合う方へ、人々がなびく方へ向かう心理が強いようでもある。


某月某日
そんな心理が流行というものを生み出すのだろうが、美術界にも似たような風潮があって、かっての賑わいのジェンダーは低周波となりネオテニー(幼形成熟)もトーンダウンしてきている。もっともこうしたことを風潮でかたづけるのは浅薄であり、社会学的な深い背景を認識し、分析すべきであることは当然である。


某月某日
高輪画廊が新たな企画として立ち上げたグループ展〈輪の会〉が桜の開花に合わせるように開かれた(3月29日~4月8日)。
長老,赤堀尚先生を中心に、他の4吊は全員が東京芸大卒、同大学院終了、60才代の画家盛りで、5吊全員が立軌会に出品という括りの構成。だからといって、もちろんそこに共通の傾向や特徴はあるはずもなく、それぞれがみずからの知性と美学によって制作していることは言うまでもない。



某月某日
全員が20号からSMなどの小品を含めて4,5点の発表。赤堀尚の原色を大胆にたっぷりと使った闊達な筆致は、対象を描いて自身の存在を確認し、問うている厳しいスタンスが迫ってくる。金子滇は女性を一つの象徴的存在と化し、脇役のトカゲや骨などに何ごとかを語らせんとし、山本治は自然(風景でも花でも)の内奥が孕む呼気に生命の美を静かに掬い出し、大庭英治はやわらかな色彩の交響の中に生きものの気配を浮上させ、横森幹男はモノとモノのせめぎ合いと相関の構築の中から存在の意味を問うている。
もちろん、こんな寸感で事足りるわけではない。各画家の生きた時間の長さと堆積が描写として表出され、表現として表徴される。その人生が観者の人生と如何ように交叉し、重なりの接点を生み出す。だからアートはおもしろいのだ。
いずれにしろ、対象を内なる己と同化させた後に再び対象化してこそ、その作品は作品として自立するのであろう。
来年はどんな花を見せてくれるのだろうか。 (2010.4.10識)

 


横森幹男


初日パーティ



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