中野中の足裏庵日記(77) 山田真二の新たな美の構築へ       
2010/09/16記


山田真二パーティ1


山田真二パーティ2


山田真二パーティ3


某月某日
ことしの夏は異常な暑さが長く続いた。画廊をいくつか歩き疲れ、ふと気づくとドトールで莨をくゆらしている自分がいた。いささか熱中症気味の頭で、<美>とは何だろうとぼんやり考えている。
美という字は、羊と大きいの合成で、つまり大きい羊が美なのだ。大きい羊を見て、コロコロ太って可愛いと思ったのか、たくさん良毛がとれると考えたのか、あるいはバーべキューにしたらうまかろうと感じたか。つまり大きい羊を見て何らかの反応をした。感情の動きがあった。見過ごすことができなかったのだ。どんなことであれ、心が動かされた、それが<美>の原点なのだ。
美とは、きれいだとか、純だとか、澄んでいるとか、そんな薄っぺらな、一方通行的な単純なことではなく、醜と見えたり猥雑と思えたりすることにもあるのだ。要は、心動かされるもの、それが美なのだ。


某月某日
猛暑がいつまでもしつこく続いている中、山田真二の高輪画廊での初の個展が開かれた(9月6日~18日)。氏は1968年愛知県に生まれ、91年吊古屋芸術大学卒業、翌年同大学研究過程を修了。96~97年渡仏。現在、白日会会員として活躍している。
高輪画廊主催のグループ展「蓬左の風《や「パリ祭展《などでも度々見ているが、まとまって見るのは初めて。F50号からSMまで24点の発表。
初日、当画廊恒例のワインパーティ。格別大勢で賑やかということではないが、参加者が作品に対する正直な意見を吐露しあうという、この画廊の良き慣習が実に好ましい。バーティは酔っぱらう場ではもちろん無い。作家と、あるいは仲間と語り合う、それがパーティの本来のあり方なのだ。


某月某日
山田真二作品は、一言で括れば、家々の壁や木々に降り注ぐ光の効果をとらえながら、しかもモノの存在感を確かに表現しようとする。その手法として、一点消失法的なパースペクティヴはとらず、平面的に面を構成しながら奥行を感じさせようとする。
当然ながら平面的な面構成はかなり抽象性に近づくのだが、あくまで対象(風景)の具象性は保持している。色数もあまり使わず、かなりストイックな充足感はある。
肝心なのは、描き手と対象との距離感ではなかろうか。空間的、時間的、そして何より精神的距離感が肝要で、それは何かを簡単に言ってしまえば、冒頭に触れた<美>のありようにあろう。画家独自の美意識を表現する手法として、平面的構築という手法を選び、そこに新たな(というのは彼の発見した、あるいは実践した)美を盛りこもうとする。そのことが作品を新鮮に感じさせる。
執拗、かつ明晰な挑戦が楽しみだ。 (2010.9.16識)

 



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