中野中の足裏庵日記(82) 写実における抽象―第4回 蓬左の会       
2010/12/15記


『第4回 蓬左の会初日』


『右筆者,中野中』


『左から三岸太郎・山内大介・山田真二』


某月某日
制作において必ず一度は切所(せっしょ)がくる。さてそこをどう乗り切るか。これまでの経験値からその範囲内で事を進めれば、一応まとまりのある仕上がりにはなるであろう。その完成度にその時は納得し、満足も得られるであろうが、時間を経て見て果たして如何があろうか。 一方、切所において、すでに手にしている手法を越えて思い切って断行する。安きに流れず新たな試みに挑戦をする。上手く行かないかも知れないし、まとまりに欠けてしまうかも知れない。しかし、新たな試みや果敢な挑戦によって、次なる課題が生まれ、次なる挑戦意欲が駆き立てられよう。そうしてこそ自身も作品も一歩階段を上がることが出来るのではなかろうか。それが創作する者が背負う宿命というものであろう。


某月某日
早くも年の瀬となった。今年の負を精算し、新たな餅代の用意をせねばならない。まさに切所である。


某月某日
<蓬左の風>(12/6~18)も4回展を迎え、年末の恒例展となった。最年長が1956年生まれで最も若手が’81年生まれの29才。若手メンバーの構成に勇気あるチャレンジが期待される。いずれも写実系の画家たちである。
写実でも具象でも、要点の一つに抽象ということが挙げられる。
一般的には、外的対象的世界を描写しない作品を抽象画というが、それは1910年(ちょうど100年前)カンディンスキーが初めて対象的事物を描かない絵画を発表して、純粋抽象を論じたことから始まる。
が本来、抽象とは対象の構成要素のうち或るものを他から切り離して、抽き出すことであって、絵画においても対象のあるもの、即ち本質的要素を選びだして描写する点において、多かれ少なかれ抽象作用が含まれる。否、むしろ抽象作業があってこそ、かつ対象の何が本質的要素かを発見する、そこにこそ個としての立点が生まれるべきものであろう。


某月某日
各3点から7点の出品。中から1点ずつ挙げると、赤塚一三「冬の大樹」(P25)はシャレた色遣いで従来にない匂やかな作で、もう一歩の突っ込みを期待。柳瀬雅夫は泥くささの美が魅力で、まとまりで「出港」(M10)、奥の建物を捨てられなかっただろうか。山内大介は伸び代(のびしろ)を広げた。ブルゴーニュ地方がそうさせたか。抽象作業を進めた南仏の光あふれる「起伏する大地(エティニー)」が佳い。山田真二が色に意欲を見せた「Paysage en gris-vert」は動きがあって新境地への期待。谷本優子の小品「小屋のある場所Ⅰ」(21.2×21.2×3.4cm)は広がりがあり、色面を走るヴィヴィッドな線が活きていた。大橋みやこは数か月前に個展をしたばかり、「hu-shu」(M15)など雰囲気のある作品だが、内面性を充実させるとぐんと表情に深みが生まれよう。


某月某日
ことし一年、ありがとうございました。お元気で佳いお年をお迎え下さい。 (2010.12.15識)











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