某月某日
〈凛として花一輪の冬薔薇 あたる〉
元旦の朝、猫額大の庭の隅に咲く、小さな一輪のバラに寄せて駄句が生まれた。あらゆる意味でことしも厳しい状況は変わらず続くであろう。貧すれど鈍せず、和して同ぜず、せめて心持ちは孤高に凛と生きたい、そんな思いをこめたつもりだ。
某月某日
新年の恒例となった〈新世紀の顔・貌・KAO - 30人の自画像 - 2011〉展が高輪画廊で開催された(1月17日~27日)。この企画は2001年の1月、つまり〈新世紀〉の始まりと共に立ち上げ、Ⅰ期5年のあと2年間休み、今年Ⅱ期4年目、都合9回展となった。
恒例となりえたのは出品作家の、そして開催画廊の、理解と協力があったからこそである。
某月某日
ことしの図録のわたしの挨拶文の一部を抜粋して紹介させていただく。
━自画像は宗教画の物語場面や群像の端に画家自身の姿を入れることに始まり、単体の独立した自画像の登場としてはアルブレヒト・デューラーの『1500年の自画像』が良く知られる。17世紀に入って生涯60点の油彩自画像を描いたレンブラントがあらわれ、以降多くの画家が描いている。
つい先般、ウフィツィ美術館の自画像コレクション展(’10. 9・10~11・14、新宿・損保ジャパン東郷青児美術館)が開かれ、約1700点のコレクションから60点ほどが展覧された。
総じて自画像の根底にはナルシスの感情が見られるが、個としての自己証明に駆り立てられる状況にあることはいつの時代にあっても根本的な変化はないであろう。
(中略)ウフィツィ美術館の自画像コレクションをはじめたレオポルド・デ・メディチは〈自画像こそが芸術家のスタイル、芸術観、世界観、自意識すべてを内包している〉と語っている。━
某月某日
金沢展(2月3日~15日、ひろた美術画廊)も間もなく終え、次は京都展(2月22日~27日、アートスペース東山)を迎える。私は各会場に必ず出かけ、各会場ごとに違った表情を見せる自画像を堪能し、楽しませていただいている。しかも、その夜は地元の作家の方々と旧交をあたためながら、地酒を飲み、土地の旬モノに舌鼓を打つ。それが各会場を巡る更なる喜びでもある。
京都の次は北海道、そして神戸と巡回して今年の自画像展は終了する。まだまだ楽しみはたっぷりと残されている。宜しかったらご一緒しませんか。
(2011.02.12識)
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