中野中の足裏庵日記(62) 香りたつ女の<精>      
2008/04/05記
某月某日
佐々木曜さんの、当画廊では4年ぶり3度目の個展(4月1日〜10日)が始まった。そのDMに私は以下のような一文を寄せた。
−−制作にあたって佐々木さんはほとんどテーマ性を持たないという。その時の心象の趣くままに筆を進めるということであろうが、 そこにはおのずとテーマらしきものがレリーフされてくる。それこそがまさに<人生が表現を生む>の本意に叶っていよう。
上掲の「松風」を私なりにみれば、人生の途次に己れのありようにしばし心を巡らす女性を、見つめ包みこむような2本の松樹が、 人生の<門>のようにも見えてくる。過去と未来、此岸と彼岸、その結果に逡巡する。いや松韻に心を委ねている女性の佇まいが、 私の人生と輻輳してくる。
こうした見方は作者には与り知らぬことであろう。松樹と土坡と女性が生みだす空間にこそ作者の思いはあって、静かで豊かな この空間に何を見、何を感じようが<あなたまかせの風>が吹けば、佐々木さんはそれで十分なのだ。−−


某月某日
1回目の花づくし、2回目の風神・雷神3部作と最上川絵巻に次いで、今回は女性像を中心に構成された。「松風」(50P)は 松樹のもとに憩う女性、春の陽光につつまれて咲く桜樹と女性の「花影」(50P)、満天の星降るなかで両手を捧げる赤いドレスの 女「星の夜」(40F)、橘の園を散策する緑衣の女性を描いた「橘」(40P)、そして海を背に立つ若々しい女性の「花鬘」(40M)の5点。これらの女性を つくづく見ていると、彼女らはいずれも画面中央にその位置を占め、それぞれ所作やポーズは違っても、私が主役よ、と言っているようでは あるのだが、ちょっとまてよ、といった気分になってくる。可憐であったり堂々としたりはしているが、徐々に画面の醸し出す 雰囲気のなかに溶けこんでいき、その存在が不確かな妖しさを帯びてくると再び、私はここにいるわよ、と浮上してくる。 そんな揺らめきにも似た思いが小波立つ。
それは実体をとらえがたい神のようではないか。つまりここに登場する女性は佐々木さんの<女神>なのだ。そう言って不都合ならば、 人の姿をかりた<女の精>と言えば良いだろうか。そう得心してもう一度見直してみると画面全体に香り立つものは、作家の精霊 なのだと妙に私は納得してしまった。実に<自分まかせの風>を吹かす筆者ではある。


某月某日
女性像のほかに「河」(40P)「富士」(30P)が出品された。この時期、重なって開催されている日春展に「川」(30F)を出品。 ずいぶんの御精勤ぶりに感心するのだが、一筆描きのような「富士」の迫力と存在感に圧倒された。ちょっと比類のない富士山の 作品ではないかと思う。この作品の魅力について何とか語りたいのだが、今の私の力量ではとても追いつけない。出来得れば、 この「富士」1点だけを展示した展覧会を、たとえ3日間、いや1点1日で良いからやって欲しいと思っている。
2008.4.4識



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